|
以前の記事
カテゴリ
最新のコメント
ネームカード
エキサイトブログ
モノクロ珈琲
Niagara珈琲+ 現象学 便所の落書き 水牛珈琲/北千住ロケット.. 私は静かに本が読みたい ちひろ的パリ生活 ねこや珈琲 松浦珈琲 matsuur.. yutamanma's .. Junyu珈琲焙煎工房 リンク他
事情ラジオ 土屋賢二公式HP 黄金日記 ayumi'sroom chocolat 喫茶店巡りの日記 百々徹のBlog Monk's Cafe コーヒーとお茶 お家が喫茶店 小説の孵化場 帰山人の珈琲漫考 自分の健康は自分で守る <メール> orkskzhk@gmail.com @は半角で ライフログ
ブログパーツ
|
最近紅茶を飲んでいます。ずいぶん飲んでいるような気がします。コーヒー好きか紅茶好きかに分かれるような気がしますが、僕はどっちも好きなようです。
コーヒーサイドからざっくり紅茶の世界をのぞいた感想なのですが、コーヒーやショコラ界よりも、ワイン化が進んでいないとなぁいう感じがします。これは「遅れている」とは捉えません。ソムリエ語彙が便利すぎて、コーヒー界にもショコラ界にも随分語彙表現の網の目を張りました。紅茶にはそれが浸透しすぎていない。どの方も程よ~く使っていると思います。それでも、顧客になにか伝わらない部分があるかといえば、そんなことはないでしょう。感動そのものは言葉を介さずに直接飛び込んでくるものです。むしろ言語の網の目をビリビリに引き裂いて、胸元を開けて待つべきだとすら思います。こいやぁ! 「サブカルあがり」という言葉がある。サブカル系とは、アンチメジャーでお洒落っぽい若者達が、ファッションの一部のようにアングラ系の文学や音楽に親しんでいることをいうようだ(原義とはずいぶん離れている)。そのスタイルはあくまで自分から湧き出るというよりも、そんな自分がかっこいいからという一種の見栄からくるもので、それはやはり「メッキ」なのだ。だが、20代も半ばを過ぎると、彼らも自分の偽物ぶりに気づいてくる。すると、そこから脱却しようといろいろ足掻いてみるわけだ。だけれども、モチベーションが「かっこよさ」なので、かっこよさの伴いにくいディープな世界にはなかなか入り込めない。気づいた時には、こちらから差し出さなくてはいけないものが多すぎる状態になっている。学術系の人間達は、そういった文化的迷子を「サブカルあがり」と呼んで軽く蔑視している。でも、僕はそんなに悪いことじゃないと思う。自分でつけたメッキをべりべり剥がして(これはとても勇気がいることだ)、暗がりの奥に踏み込もうとしている彼らを、誰が笑えるだろう。そして、吉祥寺には、「サブカル上がり」達がメッキを剥がすのに丁度よい、ファッションから暗がりへ引き込むような店が多いように思う。その中でもお気に入りの店は、BASARA BOOKS、百年、古本屋さんかくの三つだ。まず、BASARAが一番チャラい。でも、講談社文芸文庫がけっこう揃っている。百年はアート系が強いが、品揃えの幅も広く少し暗がりに踏み込んでいる。「さんかく」はかなり読み手を試す店で、ここの「いきがり方」は非常に素敵だ。店はめちゃくちゃ狭く、冊数もすごく少ないのだが精選されており、これでもかと凝縮されている。古かろうが絶版だろうが人気なかろうが「良い本だけを選んだ」という熱意が詰まった店だと思う。どれだけ人気がなくても「良い本」はそれ相応の値をつける。いくら大人気作家の売れ線でも内容の薄い本はワゴン行きだ(たぶん)。ブックオフでゴンブローヴィチが100円で売っていたらそれは活字文化に対する冒涜だ(憤りながらも即買うが)。さんかくはこういった冒涜から一番遠い店ではないかと思う。 このトライアングルで迷っていれば、きっと衝撃の一冊にであうだろう。その衝撃の「しびれ」だけが本物の指標なのだと思う。 吉祥寺はすっかり紅茶の街だ。農園直接買い付けが売りの、レベルの高い店が三軒もある。LEAFULL、G clef、チャイブレイクの三つだ。LEAFULLは種類がすごく多くて、色々試飲させてくれるし、G clefは本店のほかに東急裏にティールームができて一杯ごとに飲めるし、チャイブレイクは農園別の紅茶だけでなく、洗練されたチャイが売りだ。どの店も雑誌などではおなじみの店である。チャイブレイクも、オープンしたてにもかかわらずcafe&sweetsに数ページにわたって掲載されていた。いうまでもなくここは伝説的珈琲店「もか」の店の場所だ。店内にはカウンターができており、店主の熱い紅茶話が聞ける。このトライアングルのなかに迷い込むと、同じコースをぐるぐる回ることになり抜け出せなくなるのだ。人生に迷い、コーヒーの迷宮にはまり、ほかにこんなトライアングルにまで迷い込んでたまるかよ・・・。と思いながらも今日もぐるぐる回ってしまった。もう遅いのかもしれない。
知り合いのフランス人ご夫妻は、とてもワイン好きだ。ワインカーヴまで持っていて、高価なものも結構所有しているご様子。でも普段は、すごーく安いヴァンドターブルを飲んでいる。蛇口のついたポリ容器にはいったワインを、食事と一緒にガンガン飲む。ワイン好きで、舌が肥えてたら、安ワインなど飲まないのかと思っていたので驚いた。本当に自然でざっくりとした楽しみ方だ。あーだこうだと蘊蓄も言わないし、この味がどうのとソムリエの真似もしない。ワインが何かの「対象」というより、彼らの「一部」であるような楽しみ方だと思う。
逆に日本人のワイン好きだと、安ワインにダメ出ししてみたり、あろうことか安いワインを美味しく飲んでる人までを見下してしまう傾向があるように感じる。職業と関係なくてもソムリエの真似をするし、本を読んだり、蘊蓄を語ったりする。対象とひとつになるのではなく、周りをくるくる回っているような状態だ。しかもせわしなく。これはワインだけじゃなくコーヒーにも言えることだ。とかくうまいまずい議論をしてあの店は駄目だのあの豆がどうだと言ってしまう。プロなら必要なのかもしれないが、素人もそんな傾向が強い。でも、飲み物食べ物だけの話でもないのだ。文学でも、カフカかなんかを読んで大衆小説を見下してみたり、音楽でも3000枚のコレクションを自慢して、流行りの音楽を笑い物にしてみたり。色々な部分で見受けられる。 こういった姿はやはり、非常に力んでいるように見える。プロを真似ているのかもしれないけれども、こんな部分まで学ぶ必要なんてないし、はたしてこんな部分がプロに必要かどうかすら怪しい。もしかすると、幼児期につくられた癖なのかもしれない。もはや記憶にないような幼児期に、何かを批判して、すごいねーと言われたことがあるのだ。あるいは蘊蓄をいって、えらいねと言われたのが刷り込まれているのだろう。だから自分では気づきにくい。 個人的には友人ご夫妻みたいに自然に楽しんでいけたらいいなと思う。僕も無自覚にやってしまわないように、気をつけようと思う。目の前のものの価値は自分さえ知っていれば、楽しむのに十分なのだ。力を抜いて、ものごとと向き合おう。 そしてあらためて、前回の↓エントリをみていただきたい。これが悪い例です。
プレイヤーの感覚と批評家の感覚は違うのではないかと思う。ピアニストの耳と、クラシックの批評家の耳が違うように。どちらも音楽に詳しいのだけれども、その詳しさの「質」が違う。料理人の舌と料理評論家の舌も違う。画家の目と、美術評論家の目も違う。たいがいプレイヤーよりも批評家のほうがいろいろ知っていて、詳しいものだ。けれどもプレイヤーは詳しくなくてもできるというわけではない。彼らは彼らで別の詳しさがある。
僕はコーヒー好きでいろいろな店で飲んでは来ているが、どちらかといえばプレイヤー側の舌だなと思う。僕よりコーヒー店に詳しい人は本当ーにたくさんいる。僕はというと、色んな店をめぐるというより気に入った店に何度も何度も通って、それを真似るように繰り返し自分で焼いている。 でも、飲むだけでなく自分で焼いてみると、より凄さがわかることがある。理解が深まれば深まるほど、その人がはるか先を歩いているのがわかる。むしろ距離が開いていってしまってるのではないかという感覚すら持つことがある。そういう先輩方のコーヒーを、なぞるように飲み続けている。何度も行っているとごくたまに、奇跡的な一杯に出会うこともある。普段からすごい人でも、さらなるスーパープレイが飛び出すことがあって、面白い。逆に普段はあまり大したことないんだけど、たまーに、本当にごくたまーに最高な一杯が出てくる店とかも、個人的には好きだ。こういう店は批評側からは全く評価されないだろうなとは思うけれども。 ここまで書いて思ったのだが、プレイヤー側の感覚というのは、そのモノを「運動」として受け取っているのかもしれない。特定の感覚を引き起こすものとしてではなく、ある「運動」の一部として認識しているのだ。そして、拙いながらもそれをなぞりながら染み込ませている。もちろんレベルに差があればなぞることなど不可能だ。その場合は「意味不明なショック」として現れる。もちろん、それも快い。 気をつけたいのは、この受け取り方を受け手に強いてはならないということだ。受け手の態度も、楽しみ方も自由であるべきだと思う。ちなみに自分は音楽も好きだけれども、完全に批評側の耳を作っている。文学も、ウィスキーもそう。武術はプレイヤー。哲学は・・・アレ?あ…そうか。うん。
友人に熱烈な矢野顕子原理主義者がいます。そしてこないだ彼女らに矢野さんのライブに連れてってもらい、涙するほど感動してしましまったのです。それからというもの、僕もとり憑かれたように矢野さんのアルバムばかり聞いています。「情熱の延焼」というやつです。こういった「突き抜けた」友人というのはありがたいものですね。矢野音楽の感動の分、僕の人生は豊かになっているのですから。でも、このような例は音楽だけではないです。たとえば友人にワイン馬鹿がいたとします。そして彼にワインの情熱の火をもらってワインの世界に入れば、自分もその知識と感動を享受できるわけです。身の回りに映画馬鹿や文学オタなどが近くにいれば、さらに人生は豊かになるでしょう。
最初から理想的な幅広い知識を得ようとするインテリゲンチャ式教養およびその手法が絶滅した今、教養というものが存在できるとしたら、こういう形なのではないでしょうか。突き抜けた情熱を持った人に会って、火をともしてもらう。彼らはその分野の魅力を余すことなく伝えてくれます。一回火がともれば、あとは自動的に進みます。何かを覚える苦痛も、楽しむための基礎的訓練の苦労もない。 なんでもそうなのですが、一番エネルギーが要るのはモチベーションのコントロールなのです。つまり自分で自分に火をともすことが一番難しい。力んで歯を食いしばって、無理に努力をしたらスタートを切ることすら難しくなってしまう。繊細で微妙なコントロールが要るだけでなく、運も必要です。ワインを覚えようとして一人でやみくもに種類を覚えたりしても、詳しくなるまでどれだけの苦痛がともなうことでしょう。イヤになっちゃいますよね。しかし、「情熱の延焼」の場合ならモチベーションのコントロールはナントカ馬鹿の友人が担ってくれます。 従来のインテリ型教養というのは一種の流行に近いも部分があって、「知らないと恥ずかしい」という感覚からいろいろな知識を詰め込むという形も多かったのです。つまりポーズだけという人も多かった。けれどもこのスタイルは、感情から、モチベーションから火をともすわけですから、嘘はつかなくていい。 こうしてできるナントカ馬鹿の連鎖は、個人的にとても面白いと思うのです。ジャズの魅力を教えてもらい、代わりにこっちはウイスキーの魅力と情熱をあげる。ミステリの魅力を教えてもらい、かわりにスタンダールの魅力を伝えてあげる。自分には何もあげられるものがないよ、と嘆くこともありません。だってナントカ馬鹿は話を聞いてくれるだけでうれしいのですから。仲間が増えるのであればなおうれしい。 こうした馬鹿連鎖のための場(カフェ)があったら面白いかなと最近思います。
自分に蓄積されたものの総体が、自分の判断そのものだといっていい。くだらないものを見れば、それだけ判断が鈍る。武術でも、下手な人間の技を見たり受けたりするという事は、それだけで自分の感覚を鈍らせる。本当に図抜けた人の技だけ見続け、徹底して真似るのが昔からの王道だった。それが内弟子や学問の書生制度なのだろう。一流のものだけ体に通せと昔の職人たちは教わっていたのもうなずける。
判断する目も耳も、自分で育てなければ本当には働いてくれない。これを自分で意識的に育てるか、偶然に任せてほったらかすのかの違いは、実は大きい。 だが、今の時代の「一流のもの」とはなんだろうか。昔は時代の荒波を乗り越えて、時間の洗礼をくぐり抜けて愛されるものが、即一流だった。でも、もうそんな単純な時代じゃない。武術なら、より効く技がより優れているのでわかりやすい。だが、文学や音楽などの芸術分野ではいったいどうなのだろうか。最大の人数に売れたものが、良いものとされた時代もあった。それはそれで幸福な時代だったように思う。だが、そんな時代も終わった。では時代を超えて目や耳が肥えた少数の人間にだけ愛されつづけるものが「良い」という時代にもどるのかといえば、もちろんそんなわけもない。 自分はどんなスタイルで目を育ててきたか、耳を育ててきたか、舌を育ててきたか、その違いがダイレクトにものをいう時代にってきたのかもしれない。 僕でも一応気をつけていることがある。感覚を人にゆだねてしまわないということ(無知で感覚が幼稚な時には優秀なガイドは必要だけれども)。あと、時の洗礼を信頼しすぎないということ(時代が切り捨ててきたもののが再評価されることだってよくある)。判断に対人論法を用いないということ(いけすかない馬鹿が好きな物だからといって、見もせずに劣ったものだと判断してしまいがちだ)。 僕の場合はこうして判断が停止してしまうのだけれども、エポケーの一種だと思い込むようにしている。括弧に入れたまま走ることだってできるのだ。
|